これは、亡き母の手帳に、か細い字で走り書きしてあった言葉。
母は晩年になっても、金銭面で、父に苦労をさせられて、いつも大変そうだった。独立してからは私も弟も母には何かとお金を工面してきた。ただ、父のためというのが気に食わなくて、最低限のことしかできてなかった。
あんなに突然亡くなるなら、もっと、買ってあげたかったものもあったし、旅行にも連れていってあげたかった・・・なんて、泣いていた時に見つけた母の手帳。
贅沢なことなど一切望まなかった母からのメッセージのように思えて、また泣いた。
色彩フォーラムでの末永氏の話の中に、世界一貧しい大統領で知られるムヒカ大統領の言葉があった。「貧しい人とは、恵まれてない人ではない。たくさんのものを持っていても、もっと、もっとを欲しがる人のこと。足るを知らない人だ」と。
今の私はどうだ。息子たちはどうだ。
確かに貧乏ではないかもしれないけれど、どこか貧しいんじゃないかと、母の最期のメッセージを思い出したのだ。
最後になるなんて思わなかったから、最後の年の母の日はスルーで何も贈らなかった。
子どもの受験でバタバタしてたから、落ち着いたら、欲しいもの聞いてみよう!なんてお気楽に考えていた。
そして、
翌年の母の日のプレセントは、ピンクの母らしい色の仏具を選んだ。
なんてこと!いちばん悲しいプレゼントだった。喜ぶ顔はもうなかった。。。
生前は、散々うるさい父に苦労して、バブルがはじけてからは金銭的にものすごく苦労をし、祖母の介護から解放されたと思ったら、今度は父の介護まで担わされ、私なら、耐えられないだろうな。
それでも、どこか天然で、淡々としていた母だった。
父を送ったら、色々親子で楽しもうと思っていた。
なのに。寒い夜に、お風呂で突然。さっき電話で普通に話してた母は、お風呂で、倒れて、駆け付けた時には冷たくなっていた。
今まで生きてきた中で一番辛かった日。
しかも翌週は長男のセンター試験と次男の中学受験の日だった。
なんで、よりによって、こんな時に!と間の悪さを恨んだが、あの受験のドタバタがなかったら、私のメンタルは崩壊してただろう。すべてが母頼りだった私。でも、私も子どものお母さんだから、しっかりしなきゃ!泣くのはすべて終わってからだ!と奮起して、乗り越えた・・・と思う。あの頃の記憶は殆どない・・・
それも母の心配りだったのか、と最近になって思う。
色んな後悔が日々頭をよぎる。私は自分のことで精いっぱいで、まだ、何の恩も返せていなかったのに。7年経ってもまだ悲しい。
父が先に逝くと勝手に考えていたのに、見事に逆だった。介護が必要な父は施設に入った。母が亡くなって7年。父はずっと半身不随で、少し認知も進んでいるが。そのほかは元気で施設にいる。我儘を言おうにも、母はもういない。
父には、「もし、あの世に行っても、お母ちゃんを探したらアカンで」と言っている・・・
絶対にお迎えになんか来ないだろうから。
最近考える。どっちが幸せだったか。
コロナ禍で、父とは1年以上会えていない。
母はこの混沌とした世の中から、さっと消えて、逃げ切ったのかもしれない。
本当に誰の手も煩わせずに、憧れのピンピンコロリで、母らしい最期だったと思う。
暑くもなく、寒くもなく、痛くもなく、辛くもなく、うるさい父も居ない、きっと、穏やかにあの世生活をエンジョイしているのかもな・・・なんて思う。
息子たちに言っている。「私が、ばあちゃんみたいに、ある日突然逝ったら、あっぱれ!だと思って欲しい。ちょっとした後悔なんて、無用です。」と。
書いていて気づいた。これも母からのメッセージなのかも。「十分よく生きました。後悔は無用です」と。
コメント
お母さんの言葉に胸を打たれました。ものすごく悲しいのに、とても尊い美しい世界も
同時に感じました。子ども目線ではわからない、お父さんへの深い愛情もおありだった
のではと思います。
毒親、という言葉は好きではありませんが、母娘の確執話はよく見聞きします。嫌いだった母を見送って、ほっとしたという話を読んだ後に、こちらのブログを読み、
たくさんの愛情を家族に注いでこられたお母さんは、やっぱり幸せな方だったと思います。お母さんからのメッセージはこれから先も、思いがけないところから受けとれるような気がします。
ありがとうございます。
母からの思いがけないメッセージ・・・これからもあるのかなぁ
うまく感じられるか、心配だけれど、楽しみです。