小手先の顕在意識の中でもがいていた。
潜在意識を浮上させて、受け止めてあげる・・・なんて、カッコよく思っていたけれど、その薄っぺらさに今さらながらに気付いた気がする。
野口嘉則氏の「鏡の法則」の動画がYouTubeで流れてきた。
この話、実は出版時(2006年か、2007年頃かな?)に本屋のベストセラーの棚にあって、手に取ったことがある。
ばらばらとめくって、「父親に感謝して、許す、謝る・・・」みたいな一節があったので、「無理無理・・・」と少し嫌な気分がして、さっさと戻してしまっていたので、よく覚えている。
当時の私の心には全く響かなかった。
それが、ひょんなことから、流れてきた動画を見入ってしまって、図らずも号泣した。
諸事情は違うが、主人公の父親に対するあたりがまんま私だったから。
主人公は長年受け入れられなかった父親に感謝し、許し、ありがとうを伝える・・・
すると、自身の気持ちが変化し、まわりにも連鎖して、いろんな喜ばしことが起こるというもの。
それまでのいきさつがまた、私を動揺させた。そして、大泣きした。
私には、もう、感謝やありがとうと伝えることも、ごめんなさいと謝ることもできない。
父はもういない。
最後に会った時、父は私に「ありがとう」と言ってくれた気がした。「ありがとう」と言うのは私だったのに。あんな無機質な病室でひとりで逝かせてしまって、少し心が痛い気がしていたのは事実。でも、今、申し訳なさでどうしようもない。
「許します」じゃない。許して欲しいのは私の方だ。心から謝りたい。
少し前から、YouTubeのショート動画で、心理カウンセラーのオジサンが出てきて、喋るメッセージが心に刺さりまくっていた。だれ?この人・・・と思っていた。この人が作者の野口嘉則氏だったんだと知った。
なにかよくわからないけれど、このタイミングで引き寄せてしまったようだ。
少し前、私は、次男の就活のことで、相当心が弱っていて、
この過度な心配性はちょっとした病気だな、もっと息子のことを信じなきゃダメなのに。
と、それが出来なくて、悶々としていた。
自分の感情を否定して、そんな心配性の自分を受け入れることが出来てなかった。
子どもの試練を冷静に見守れない、不安神経症気味の自分がいる。確かにいる。
それが私だ。親に薄っぺらい感謝しかできなかった。
それも私だ。
あの時、痛かった、辛かった、悲しかった・・・私の中で色んなインナーチャイルドが声を上げる。それを見守るインナーペアレントはその思いを受け止めてなかった。
いつも「そんなんじゃダメじゃない!」と突き放していたんだ。
自己受容・・・自分の感情、自分という存在を受けいてこなかった。本当の意味で。
今まで、色彩セラピーの勉強もしてるし、キャリコンの資格のために色んな心理学の本を読んだりして、自己受容なんて、とっくにできてるつもりだった。今の自分に対して受容はできているハズだった。
でも、それは浅いところで、顕在意識の中でのものだった。
本当の基盤、土台ができていなかった。
だから、何度色彩セミナーを受けて、分かった気になっても、毎回、最後は同じ「自分を深く知る」なんてありきたりな言葉で終わってしまう。同じところをグルグル回っていた。
少しズレていた気がする。
「鏡の法則」を読んで、ひとしきり泣いて、もう伝えられない感謝の言葉を目いっぱい書いたら、少しわかりかけた気がした。
だからといって、本にあったような奇跡が起きるとは思っていないけど、私のなかで、何か土台のようなものが築けたような気がした。
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