父の葬儀

雑記

2月5日の早朝、転院先の病院から父危篤の知らせ。慌てて駆け付けたが、間に合わなかった。

3日に転院して、本当にすぐだった。持ち込んだ入院セットはほとんど未使用のまま。

転院時は、酸素吸入が常時出来る民間救急車での移動だったので、私はずっと付き添うことができた。ずっと手を握って体をさすっていた。こんなに長く父と二人でいる時間は、今までなかった。あまり好きではなかったから、元気なころでも、私の施設での滞在時間は最長でも30分が限界だった。

病院に着いたら、もう付き添いはできないので、多分、生きている父に会うのはこれが最後かもと思うと、手を握りながら涙がぽろぽろ出てきた。好きとか嫌いとか、そんな次元ではなく、もっと深いところでの繋がりを感じた。

転院先の病院でも主治医は、もう長くないと診断して、もろもろの検査結果を待つ間、無機質な処置室で、付き添いを許された。

私は、やっぱり手を握ることしかできなくて、父は言葉にならない声でありがとうと言ってくれた気がした。

それが最期のお別れだった。だから、死に目には会えなかったけれど、私は十分お別れが出来たと思っている。

仕事の都合で遠方にいる弟が駆け付けたのは亡くなった日の午後遅く。

火葬場の都合で(今はシーズンらしい)で父は丸2日家にいた。

父はずっと家に帰りたいと言ってたし、弟と父とは3年近く会ってなかったから、私と同じで、長時間父と一緒にいるのはこれが最初で最後だったろう。

現状では、葬儀も家族葬で、父の数少なくなった友人にさえ知らせなかったから、弟と私の家族4人と母方の叔母家族が3人の寂しいお葬式だった。父方の親戚は山形だし、母方の親戚も皆高齢で参列辞退、9年前の母の葬儀とは全く様相が違った。供花も親族一同のほかは私と弟の職場のみ。従姉妹たちが供花をしてくれたが、母の時とは比べ物にならない。

それでも、母と同じセレモニーホールで精いっぱいのことをしたつもり。

施設で8年もお世話になっていると、交友関係など全くなくなるし、知らせたとしても皆高齢で、動けないだろう。

通常時ならお通夜くらいには来てくれる介護士たちも、この状況下ではお線香も上げに行けないとのことだった。そもそも通夜式もしなかった。

享年85歳。もう少し長生き・・・ではなく、あと3年早く逝けてたら、もっとにぎやかに送ってあげられたかもと、長生きリスクを思い、なんとも言えない気持ちになる。

それでも、通夜と葬儀の2日間は、晴れやかな顔の遺影のもと、完全に父が単独主役で、常に目立ちたかった父にも満足いただけたかなとも思う。

弟の職場と私の職場からの弔電もたくさん頂けたし。唯一、母の時より多かったもの。

そして、今回知らせなかった、父と交流があったらしい人を年賀状から割り出して、早々に通知のお手紙を送った。

弔問、香典等は固辞との言葉を添えて。

それぞれが、思い出してもらえるだけで、供養になる気がするから。

しめっぽい話しは今日でおしまい。もう親無き子になってしまったけれど、私も57歳。肩の荷が下りたのも事実。

午後からシンフォニーホールに「熱狂コンチェルト2022 哀愁のラフマニノフ」を聴きに行く。

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