最近、若者の間で「親ガチャ」なる言葉があるらしい。
容姿やアタマのよさは親次第・・・親の経済力など、親は選べない。自分ではどうすることもできない、ということなのだそうだ。
努力不足を親のせいにするなんて、腹立たしいぞ!と思ったけれど、私だってずっとその「親ガチャ」に外れたと思っていたのだ。一生懸命育ててくれた親に向かってなんて失礼なんだ!そもそも我が子に「ハズレ」と思われていたなんて、親として悲しすぎる。
でも、あの時、自由に進路が選べなかったのは、親の経済力のせいだった、とか、親がもっと学識のある人だったらよかったのに、とか果てしなく思っていた。
その事実はどうしようもない。親は選べない、と。
大体、どのレベルでのハズレなのか。きっと「親ガチャ」にはレベルがある。
レベル1~5くらいの。
私が引いたガチャは多分レベル3。普通親ガチャ。
あくまで私基準。
そして最高レベル5の親ガチャであっても、ハズレだと思っている人もいるんだろうな。
「ガチャ」なんて言葉はご存じないであろう眞子さまなども、「皇室になんか生まれてこなければ、自由に結婚できたのに・・・」なんて思ったかもしれない。
母親の交際相手に熱湯をかけられて亡くなった男の子の「親ガチャ」のハズレ度合いに比べれば、みんな大当たりなはずだ。あの子はきっと図らずも最低レベル1の「親ガチャ」のハズレをひいてしまったんだ。
どんなに無念だったろう。心が痛い。
殺した男は今度はきっと逆の立場で生まれてくるはずだ。もっと残酷で卑劣な親の元に生まれて、もっと苦しみ、非業の死を遂げるはずだ。絶対に!
スピリチュアリストの江原さんによると、「子どもは親を選んで生まれてくる。この親の元で色々人生勉強をするべく、わざわざ親を選んで生まれてくる」とういことだった。「すべては必然なのだ」と。
「与えられた境遇のもと、どう幸せになるか、どんな意味を持たせるか、を勉強するためなのだ」と。
なら、どんな必然で、あの子は殺されなきゃいけなかったんだ?
そんな立派な心持ちの人はどれほどいるんだ?
私なんぞのハズレ感は全くどうでもいいレベル。
しかしながら、ずっとこだわりがあったのも事実。
息子たちに自分と同じ思いは、言い訳はさせたくないと、がんばってきたのだ。そして、自分の満たされなかった部分を息子を使って満たそうとする、この私が出来上がったのだ。
小さい頃からピアノを習わせ、スイミングやテニス、流行りのプログラミングスクールだの、実験教室だの。中高一貫私立に行かせて、強制はしなかったつもりだが、自分が出来なかったこををすべて息子たちにぶつけてきたような気がする。
そのためにも経済力は欠かせない、と仕事を続けてきたのだ。
扶養親族だからと、いつも父に遠慮していた母のようにはなりたくなかった、というのもある。
そして、今、私は、
欲しいものは山ほどあるが、ものすごく平均的に何不自由なく、とりあえず健康で、ものすごく大きな心配事を抱えていることもなく、そこそこに生きているので、
この私の(負の)バイタリティ―を持たせてくれた親ガチャは、そんなにハズレでもなかったのだろうか、とようやく最近思えるようになった。
息子たちの会話を漏れ聞くところによると、私の、わけのわからない圧は鬱陶しかったらしいが、自分達の選択に決してNOといわなかった、これからも多少の援助はしてもらえるっぽい親の、レベル3?の普通親ガチャは、概ねアタリだったと思っているらしい。
ちょっと救われた!
しかし、彼らはこれから人生最大の「結婚ガチャ」に遭遇する。いや、しない選択もアリかもしれない。「子どもガチャ」だってあるし、とにかくいろんなところでガチャガチャをし続けるはずだ。「当たり」と思えたらラッキーだけど、「外れた!」と思ったとき、そのハズレにどんな意味を持たせるか、是非是非学んでほしい。
それに、成人した今後、ガチャだと思っていることは、厳密にはガチャではない。すべて自己責任なのだよ。どうすれば「当たり」を引き寄せることができるか、それは、すべて自分でどうにか出来るものだから。
さて、私の「結婚ガチャ」はアタリかハズレか。
これは多分、臨終の際までわからないんだろうな。
コメント