しつけ糸の話

ワーママ奮闘記(回想)

子どもを虐待した親が必ず言う言葉。「しつけのつもりだった」。

寒気がするほど嫌な言葉だ。

「しつけ」という言葉を聞いて、母がいつも仕付け糸をつかって縫物をしていたのを思い出した。

母は丁寧な人で、洋裁をするときに必ずしつけ糸で縫ってからミシンをかけていた。「こうするときれいに仕上がるから」と教えてもらった。布に合わせて、カラフルなしつけ糸で、本縫いの後、ほどいてしまうのがもったいないな、といつも思っていた。でも、しつけ糸はあくまで仮のもので、道筋をつけるだけのもの。ガイドだ。

ただ、子育てにおけるこのしつけ糸の影響はすざましもので、思ったとおりの子どもに仕上げるために、あらゆるところに「しつけ糸」をしまくる親。そのガイドどおりに忠実に従う子ども。やがて、しつけ糸のないところには進めなくなってしまって、戸惑うのだ。そんな気がする。

私はいつもフリーハンドでいきなりミシンをかけていたので、出来上がりは雑だった。なのに、子どもに対してはいつもしつけ糸で先に道しるべをつけて、そのとおりに走らそうとしていた。

私の場合は、雑な性格と忙しい毎日のせいで、丁寧にしつけ糸を仕切れなくて、息子たちは途中から、私のガイドを外れていった。

なので、私の思った「きれいな仕上がり」とはいかなかった。私の中の価値観での話。

いつも心が揺れていた。私が仕事をしていなかったら、もっと子ども達のことをよく見れて、きっちりと導けたんじゃないかと。仕事に向けていたエネルギーを全部子どもに向けていたら・・・と。

そして、だから、仕事をしていてよかった。と今心の底から思う。

私の価値観で、道筋をつけられて、いつも全集中されてたんじゃ、息子たちはたまったもんじゃなかっただろう。見た目はきれいに仕上がってたとしても、私のつけたしつけ糸をつけたままで社会に出ていくんだ。自分のアタマで考えずに、ただひたすらに、私がつけたガイドの上を走っていく。一生「私の作品」として。

これは考えただけで怖い。

息子たちはその都度アタマを打って、自分で軌道修正しながら進んでいるようだ。これからもずっと、親がじゃなくて、自分が納得する生き方をしてくれたら、それで十分。と思うことにした。ガイドは少し離れたところあって、遠目で確認しながら進んでくれれば。

しかし、私がこの境地にたどり着くまで、どれほどの葛藤があったか。追々記載していければ、と思っています。

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