「普通」のお母さん

ワーママ奮闘記(回想)

親としては、生活していく上で家事、仕事、子育て、をいつも100%できるわけではないので、時点時点でその熱量が変化する。子どもも成長していく過程で、学校、友達、親、兄弟への関わり等、これもまた、時点時点で熱量が変化する。家族間の熱量が双方向に一致すれば、問題はないが、往々にして、すれ違う。

私はフルタイムで仕事をしていたので、随分と悩んだ。

よく「子どもと接する時間量じゃないんです。密度が大切なんです。」なんて本に書いてあったけど、子どもが甘えたい時に母親が居ない、とか、今、聞いてほしいのに母親が居ない、とか、子どもにだって都合があるから、こっちがいくら「さあ、今から密度たっぷりの時間です!」という雰囲気を醸し出したところで「気分じゃない」時があって当然だ。

学校から帰って、今、聞いて欲しいのに・・・と思ってるんじゃないか。さみしい思いをさせてるんじゃないかといつも思っていた。

息子たちは、保育園育ちだったから、お母さんはみんな夕方帰ってくるものだと思っていたそうで、小学校に入って暫くして、初めて、「お母さんっていつも家にいるんだ」と気づいたらしかった。

幼稚園行かせなくてよかった。

実は、息子が4歳になった時、幼稚園に転園させようかと考えたことがあった。

幼稚園に行かせたほうが、読み書きや、お絵かきを教えてもらえるんじゃないか、小学校に行ったとき、保育園上がりはお勉強的に不利になるんじゃないか、と気がかりだった。

幼稚園でも延長保育で7時までは預かってくれる。

でも、大多数のお友達が、3時でお母さんがお迎えにくる。自分の家はお友達のとことは違うんだ・・・なんて、悩ませたらかわいそうだ。

保育園で、お母さんは皆お仕事しているのだ、という同じ環境のお友達がいたほうがいいかな、と思い直して保育園生活を続行させた。おかげで、息子たちはしばらく「平日、日中にお母さんが家に居ないこと」が普通だと思っていたようだ。

私は長らく、この「普通のお母さん」像に悩まされた。小学校時代は特に、この「普通」にがんじがらめになる。なんだ普通って? 誰と比べて普通なんだ?

なんだかよくわからない基準で「普通」ではないと世間に見なされると、子どもはいじめにあったり、生き辛くなる世の中で、可能な限り、親も子も普通であろうともがいていた。

あの頃、「多様性」なんて言葉はなかったんだ。

あったのかもしれないが、私にはちっとも響かなかった。今なら、もっと生きやすかったかな。

いや、今度は多様性迷子になってたかもしれないな。

「これでいいのだ」バカボンパパの言葉は深い・・・

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