父は何とか酸素で命を繋いでいる。
3日節分の日に、療養型病院へ転院となる。
急性期の治療を終えて、あとは慢性化した治療とかリハビリとかを行う病院へ転院ということだ。救急のベットはもう空けてくれということ。
私だって、救える命があるなら、そちらを優先してほしい。当然のことだ。
そんな救急病院で完全治癒する見込みのない老人を1か月も預かってくれた。感謝しないといけないな。
ソーシャルワーカーがいくつか転院調整をしてくれて、1先だけ受けてくれるところが見つかった。
主治医が書いてくれる診断書をもとに療養病床を持っている病院に依頼をするのだそうだが、父のような患者は意外とあっさり断る先が多いらしい。
療養型病院って何?
ソーシャルワーカーが言うには「救急車が来ない病院です」とのこと。そういえば、前にもお世話になったな。
イメージ的には医療措置が必要な長患いの老人がお世話になるところ。長生きリスクを目の当たりにするところ。
73歳で脳卒中で倒れた時、救急病院で1か月。その後療養型病院に転院したんだった。
そこで、マヒした左半身のリハビリを行った。当時は左半身まひ以外は元気になったから(口も達者)もう医療で行うことはないと6か月で退院。当時の父のようなパターンだと最長6か月だそうだ。それからは自宅介護が始まる。
父の場合は、母が介護しやすい家になるようにと、弟が母のために家を建ててくれていたので、その建築中は介護老人保健施設(老健)(帰るあてのある要介護認定を受けた人が一時的にお世話になるとこ)で、3か月ほど面倒をみてもらった。
で、家に戻って本格的に介護開始。
でも、引っ越ししてわずか半年で母が急死。父はまた行き場を失った。
葬儀後のドタバタの中、デイサービスで通っていた老健施設がすぐに預かってくれて、本当に助かった。
が、今度は帰るあてが無くなってしまって、後は特別養護老人ホーム(特養)を探すしかなくなった。
当時父は自宅介護で要介護4。特養に入る基準はクリアしていた。父母と同居していた弟は転勤が決まっていたし、私は別居しているし、とにかく介護する人が誰もいない状態で、緊急で、と色々特養を回った。
特養に入るのが難しいのは承知していた。お金さえ出せば、老人ホームはいくらでも見つかるのかもしれないが、とにかく父にはお金がない!
弟と二人で色々探した・・・老健施設のソーシャルワーカーも親身になって探してくれた。見つかるまでいてくれていいと言ってもくれた。
程なくして、ラッキーなことに近くの特養2先から案内をもらった。順番待ちをごぼう抜きしたのだ。
ソーシャルワーカーの勧めてくれたところに面接に行った。
4人部屋の一床が空くから、とのこと。すごく有難かった。
でも、巷では100人待ちとかいう状況のなか、わずか1か月足らずであっさり決まったので、ぶっちゃけ「なんで?」と聞いてみた。
施設長と主任看護師は穏やかに、「お父様は要介護は4ながら、時間をかければ、ご自分で車いすを乗り降りできるし、何とか一人でトイレも行ける。ごはんも自分で食べることができる。正直そんな人が一番有難いのです。」とはっきり言った。
「要介護が高い方が優先といわれますが、施設では、要介護4や5の寝たきりの人ばかりでは介護士の負担は大きく、少しでも自力で出来る人が居てくれないと困るのです」
なるほど、要介護高めで、かつ、自力でトイレに行ける父のような人は、とてもいいお客様のようだ。しかも緊急だし、低所得者だし(これは言ってない)。
本当の意味での順番ではないのだなと思った。
さらに、1年後には個室が空いた、とわずかの費用アップで多床室から個室に移ることができた。
月額利用料は父の雀の涙ほどの年金とほぼ同額。医療費や物品購入などの実費はかかるが、微々たるもの。そんな費用で、父のお世話をしてくださるなんて、施設の人みんな神!と思った。
その特養で約8年間お世話になった。
過去形なのは、もう戻ることができなくなって、退所の手続きをすることになるから。入所を待っている次の人に順番を回さなくては。
今度の病院で多分最後になるんだろうな。脳卒中で倒れて、ほぼ10年。母が亡くなってからは不自由さが一段と増して、本人は何を想い毎日暮らしていたのだろう。
毎週訪れても、相変わらず、憎まれ口をたたき続けて、むっとして施設を後にすることも多々あった。
でも、もうしゃべれない。これからは、コロナ禍で本人とも会えず、病院からの洗濯物を受け渡すのみの日々だ。
私にとって、暫くは精神的にも肉体的にも少しキツイ日々が続くことになる。
最後の踏ん張りどころだ。
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